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耶伝眞帳(かでんしんちょう) >>>始まりの序章>>>
Update1999/09/18 10:44:15

2009年(平成21年)
3月
ブログ「自分に問いかけてみたら」に続きます…

1999年(平成11年)5月〜2009年(平成21年)2月
10年の歳月が流れる…

1999年(平成11年)
4月
この月は、HP作りに専念した。音楽の勉強、絵の勉強、Javaの勉強、その他。
今は、更なる力を自分に付ける絶好の機会なのかもしれない。
3月
学校の授業も終わったので、これからは、自由に出来てうれしい。この年は、私的には、プーでいて、色々と勉強出来たら良いが、そうもいかないだろう。
2月
取り敢えず、ネットワークとCGIの勉強の方を進めていて、HTML&ウェブゲームの制作と学校の課題(2チームの作品)制作を進めている。 就職先が決まったわけでもないのに、いまだ就職活動というものが出来ていない。
1月
−あるゲーム会社の常務との面接−
あるゲーム会社の常務が、私の面接の為に、わざわざ学校まで来てくれた。
常務は、しきりに縁という言葉を言っていた。
常務は、時間を有効に使うことの大切さなどを私と同じ年齢の人を例に上げて話して下さった。また、アピールをすることの大切さなども話された。この日、私は最も最悪な自分を出してしまった。そして、北海道の方に新人として誘いに来てくれている常務に私は、ネットワークの知識がかけらほどしか無いにも関わらず、東京の方のネットゲーム開発部門へ行きたいなどと言ってしまい、散々の結果となってしまった。一応はネットゲームに関する課題が出て見送りという形になった。最悪の自分を出してしまったことに対して、あとで反省した。

1998年(平成10年)
12月
あるゲーム会社の話が進み、常務と社長と面接をすることになった。
1〜11月
この年、最高学年だが、就職活動は一切しなかった。
この年の最初に、本当の力を自分につけようと決意し、就職活動は12月頃からしようと決めたからである。
4月は、DirectXでゲームを作った。
5月からは、学校の課題でチームでのゲーム制作が始まった。作るハードは、私が「ネットやろーぜ」で制作していたこともあって、「ネットやろーぜ」で2Dゲームを作ることになった。
担当は分かれたが、当然、「ネットやろーぜ」でプログラムを組めるのは、私だけだったので、全て私一人で作成した。
6月頃にあるゲーム会社のかたとメールのやりとりをすることになった。
そして、夏休みに、私の作ったゲームをメールで送った。一度開発室へお邪魔した。会うと、その方が東京のネットワークゲーム開発部門を取り仕切っている人だと分かった。会ったときの話で、10月頃に1人、プログラマーを採る予定と言われた。そして、私もその1人に入っているとも言われた。しかし、来るためには、学校をやめて来てくれと言われたので、私は、候補からは外して下さいと言った。
夏休みが開け、10月からフェスティバルに向けての制作が始まった。ここでは、DirectXの3Dを使って作ることになった。夏休みが開けて直ぐの頃、前からしようと思っていた3Dを始めたということもあったからである。このゲームで、任天堂賞をもらう。任天堂の社長の名前が賞状の右下に書いてあった。そのとき始めて任天堂の社長の名前を知った。

1997年(平成9年)
この年、初めてゲームをグループで制作するということを体験する。プログラム、グラフィックス、サウンドなど、それぞれに担当を受け持ち、作業をしていくというものだった。もちろん、私はプログラムを担当した。しかし、グラフィックスもしたかったので、少しだけ始める。 チームでゲームを作るときの難しさなどを経験する。自分のイメージした通りに周りが動いてくれなかったり、出来なかったりする。このころから、私は、色々なツールを使い出す。グラフィックス関連だったり、サウンド関連だったり、と色々である。おそらく、自分で全てしてしまった方が早いと思っていたのであろう。 前期の途中で、スーパーファミコンでそのままゲームを作っていくチームと、プレイステーションの「ネットやろーぜ」でゲームを作るチームとに分かれた。 私は、プレイステーションの「ネットやろーぜ」でゲームを作ることとした。台数が少なかったせいもあり、移れる人は限られていた。「ネットやろーぜ」はC言語であった。 この「ネットやろーぜ」では、初めからきちんとしたマニュアルがあった。というか、科目担当の先生はノータッチだったので、私は、「ネットやろーぜ」に関しては、一度も質問しなかったような気がする。全て、自分で勉強して、ゲームを作っていった。このころになると、グラフィックスも自分で作成するようになっていた。サウンドも少しずつ使うようになっていた。C++のMFCというものをちょっとしてみたが、ゲームを作るのに向いていないことを知り、早々とやめる。 この年の後半で、DirectXというものの存在を知る。そして、Drawを使ってゲームを作り出す。 インターネットを始める。HTMLで少しだけ、ホームページを作ってみる。

1996年(平成8年)
この年は、CG学科とゲーム学科に分かれる。私は、プログラミングに興味があったので、ゲーム学科を選考する。 1年のとき、スーパーファミコンの科目担当だった先生が担任になった。その先生は、C言語の担当も兼ねていた。 この年は、アセンブラを中心に、たまにCもしながらと、いう感じで過ごした。この年の最後の方で、本当のマニュアルの存在を知って中を見たときに愕然とする。今まで私は何をやっていたのだと。しかし、その考えは、今考えると間違えであった。なぜなら、着々と、プログラミング能力は上がっていたし、精神的にも強くなり、忍耐力もつき、ねばり強くなっていっていた。それらは、プログラマには、欠かせない事項だと私は思っている。

1995年(平成7年)
これから4年間は、非常に出席率の良い生活を送ることとなる。しかし、最後の方では、出席率というものが、自分にとって意義のあるのでは無いということを知り、出席率は、徐々に落ちていった。 この年、初めてパソコンというものにきちんと触る。私の持っているパソコンも徐々に使うようになる。 最初の頃は、キーボードを打つ指は1本だった。 初めてプログラムというものを組む。一番最初に触れた言語は、8086アセブンラだった。次に触れたのが、QuickCだった。 ほとんどの人が、初心者ということで、余りグラフィックス機能とか使っていなかったが、私は、本を見たり、先生に聞いたりしてグラフィックスを使った課題を制作した。 私は、コンピュータの専門学校の先生は、プログラムばりばりの人間がいるところで、ほとんどの事が分かっていると勘違いしていた。 この年の先生は、基本的な、ごく簡単なことしか知らなかった。 次に触れたプログラム言語はスーパーファミコンの65816アセンブラだった。この言語中心に私はこの年を送った。夜遅くまで学校に残ってプログラミングを続けた。しかし、ただボーっとしていただけで、なかなかうまく進まなかった。プログラミングを組む方法は、科目担当の先生に聞きにいった。その先生も、このスーパーファミコンを、始めたばかりだった。分厚いマニュアルみたいのがあったが、1年後に、それは、関数リファレンスみたいなもので、きちんとしたマニュアルが他にあることをしる。与えれば、必要と思えば、吸収していく。

1995年(平成7年)4月
耶伝眞帳(かでんしんちょう)始まる。



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