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−耶伝眞帳(かでんしんちょう) >>>始まりの序章>>> − |
Update1999/09/18 10:44:15 |
2009年(平成21年) 3月 1999年(平成11年)5月〜2009年(平成21年)2月 10年の歳月が流れる… 1999年(平成11年) 4月 1998年(平成10年) 12月 1997年(平成9年) この年、初めてゲームをグループで制作するということを体験する。プログラム、グラフィックス、サウンドなど、それぞれに担当を受け持ち、作業をしていくというものだった。もちろん、私はプログラムを担当した。しかし、グラフィックスもしたかったので、少しだけ始める。 チームでゲームを作るときの難しさなどを経験する。自分のイメージした通りに周りが動いてくれなかったり、出来なかったりする。このころから、私は、色々なツールを使い出す。グラフィックス関連だったり、サウンド関連だったり、と色々である。おそらく、自分で全てしてしまった方が早いと思っていたのであろう。 前期の途中で、スーパーファミコンでそのままゲームを作っていくチームと、プレイステーションの「ネットやろーぜ」でゲームを作るチームとに分かれた。 私は、プレイステーションの「ネットやろーぜ」でゲームを作ることとした。台数が少なかったせいもあり、移れる人は限られていた。「ネットやろーぜ」はC言語であった。 この「ネットやろーぜ」では、初めからきちんとしたマニュアルがあった。というか、科目担当の先生はノータッチだったので、私は、「ネットやろーぜ」に関しては、一度も質問しなかったような気がする。全て、自分で勉強して、ゲームを作っていった。このころになると、グラフィックスも自分で作成するようになっていた。サウンドも少しずつ使うようになっていた。C++のMFCというものをちょっとしてみたが、ゲームを作るのに向いていないことを知り、早々とやめる。 この年の後半で、DirectXというものの存在を知る。そして、Drawを使ってゲームを作り出す。 インターネットを始める。HTMLで少しだけ、ホームページを作ってみる。 1996年(平成8年) この年は、CG学科とゲーム学科に分かれる。私は、プログラミングに興味があったので、ゲーム学科を選考する。 1年のとき、スーパーファミコンの科目担当だった先生が担任になった。その先生は、C言語の担当も兼ねていた。 この年は、アセンブラを中心に、たまにCもしながらと、いう感じで過ごした。この年の最後の方で、本当のマニュアルの存在を知って中を見たときに愕然とする。今まで私は何をやっていたのだと。しかし、その考えは、今考えると間違えであった。なぜなら、着々と、プログラミング能力は上がっていたし、精神的にも強くなり、忍耐力もつき、ねばり強くなっていっていた。それらは、プログラマには、欠かせない事項だと私は思っている。 1995年(平成7年) これから4年間は、非常に出席率の良い生活を送ることとなる。しかし、最後の方では、出席率というものが、自分にとって意義のあるのでは無いということを知り、出席率は、徐々に落ちていった。 この年、初めてパソコンというものにきちんと触る。私の持っているパソコンも徐々に使うようになる。 最初の頃は、キーボードを打つ指は1本だった。 初めてプログラムというものを組む。一番最初に触れた言語は、8086アセブンラだった。次に触れたのが、QuickCだった。 ほとんどの人が、初心者ということで、余りグラフィックス機能とか使っていなかったが、私は、本を見たり、先生に聞いたりしてグラフィックスを使った課題を制作した。 私は、コンピュータの専門学校の先生は、プログラムばりばりの人間がいるところで、ほとんどの事が分かっていると勘違いしていた。 この年の先生は、基本的な、ごく簡単なことしか知らなかった。 次に触れたプログラム言語はスーパーファミコンの65816アセンブラだった。この言語中心に私はこの年を送った。夜遅くまで学校に残ってプログラミングを続けた。しかし、ただボーっとしていただけで、なかなかうまく進まなかった。プログラミングを組む方法は、科目担当の先生に聞きにいった。その先生も、このスーパーファミコンを、始めたばかりだった。分厚いマニュアルみたいのがあったが、1年後に、それは、関数リファレンスみたいなもので、きちんとしたマニュアルが他にあることをしる。与えれば、必要と思えば、吸収していく。 1995年(平成7年)4月 耶伝眞帳(かでんしんちょう)始まる。 |
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