真 :天の声って
:やっぱり白く澄んでいるのだろう
:世の中は色々あるみたいだけど
:やっぱり、自分の内なるものを
:しっかりと持っていると強い
:世の中には、そのようになることと
:そのようにならないことと
:いうものがある
:いってしまえば
:相手にする必要のないものは
:とことん相手にしない
:それが肝心かな
:自分の中でそうと決めたら
:自分の信じる現実を生きる
:世界を変えるのは
:やはり、自分だと思うから
ムウ:そのとおりです
:やっぱり白く澄んでいるのだろう
:世の中は色々あるみたいだけど
:やっぱり、自分の内なるものを
:しっかりと持っていると強い
:世の中には、そのようになることと
:そのようにならないことと
:いうものがある
:いってしまえば
:相手にする必要のないものは
:とことん相手にしない
:それが肝心かな
:自分の中でそうと決めたら
:自分の信じる現実を生きる
:世界を変えるのは
:やはり、自分だと思うから
ムウ:そのとおりです
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ああー、「天の声」。シンクロニシティみたいです。
じつは、いま書いている話がこの天の声関係なんです。
> やっぱり、自分の内なるものを
> しっかりと持っていると強い
何も持ってないというのは、中心軸がないということ。
自分が歩んでいる道が、右だか左だか、正だか邪だか、
方向性がよくわからないということで、
知らない土地をカーナビなしで運転しているようなものです。
真さんは自分の内にしっかりした規準があるようで、いいですね。
> 自分の中でそうと決めたら
> 自分の信じる現実を生きる
乱暴な生き方をして他の人に迷惑を掛けたらいけませんが、
自分が思う安全運転で生きるなら、いい人生になるでしょうね。
> 世界を変えるのは
> やはり、自分だと思うから
そうそう、この言葉。いつも気になっています。(^_-)
SECRET: 0
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天の声は、なんていうのか
いつも聞いているような
はたまたまだ聞いたことがないのか
どちらとも言えるかなって
思っています
自分の内なるものを
しっかりと持っていると
わたしは自分に
言えそうな気がしたので書きました
まだ、若干弱いかなって
感じもしないでもないですけど
たしかに、わたしの内には何かあります
それが、バーソさんの言われる
わたしの中での中心軸だと思います
わたしが進んでいる道は、
前からやっていた、
スピリチュアルデザインを作って行く道と
新たに仲間が加わって開けようとしている音楽の道
そして、その他のスキルを活かして出来る仕事を探す道
右か左かと言われると、
進んでいる道は三方向です、
それは並行してやっていくという意味です
右か左かと言われると、
真ん中に三本線が入っている感じだと思います
正か邪かと言われると、正だと思います
バーソさんのおっしゃる通り、
わたしはわたしの中に基準を
持っているということになります
ただ、知らない土地をカーナビなしで
運転しているようなものという言葉に対して
わたしは、なんとなく、
そのようにも思えるかもしれないと、ふと思いました
しかし、よく考えてみると、わたしには、
高性能なナビというかガイドが
四六時中ついています
それは事実であり、わたしを外れた方向へ
進めない役割を持っているかたたちなのかもしれません
そのかたたちへの感謝を忘れず、
日々自分のことをやりながら
前に進むことを考えて行こうと思っています
また、わたしの生き方が、
乱暴な生き方かと言われると、
特にそうでもないとうなずけます
それと、他の人に迷惑を掛けているかと言われると、
そこは、わたしでは、判断が出来ないところですけど
なにかしら、言うということは、他に影響を
およぼすということだと思いますから
それを、どう受け取るかで、
また違ったように思われるかもしれません
現時点で、それを迷惑だと思われているか、
そうでないのかは
わたし一人では判断できないところです
ただ、世の中に生きているということは、
色々な人と関わりあって生きていると
いうことなので、なにかしらの思いは
それぞれにあると思います
それが、今持っているわたしの答えです
わたしは、バーソさんのいう
人に迷惑を掛けたらいけませんが
という言葉がずっと気になっていました
わたしの中で
何か思わざるを得ない言葉だからだと思います
今思う、世界を変える自分とは
自分と思っている、自分
言ってしまえば
世の中に自分を持っている人は
数限りなくいるような気がします
その自分です
ある特定の誰かという意味ではなくて
ひとそれぞれにある自分のことだと
思って書きました
バーソさんの指摘されることに答えようとすると
言葉を多く必要とします
とても簡潔に書けないって思いました
ありがとうございました
なにか自分の中で少し整理できたような感じがしました
バーソさん、コメントありがとうございました
SECRET: 0
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丁寧に答えてくださって、ありがとうございます。
いろいろよくものごとを考えていますね。感心します。
日頃、ムウさんとの会話は相当多そうですね。
そしてそれをいつも自分の中で咀嚼しているのですね。
うちの近所に、さびれてしまったシャッター通り商店街があります。
その隣接する住宅街の電柱に、町会が設置したスピーカーが幾つかあり、
年中、演歌が流れています。そこは商店街ではなく、住宅地の公道です。
私は、ド演歌が大嫌いなので、そこを歩くときは気分が悪くなります。
クラシックやポップスだとしても、公道で聴かされたくはありません。
私はいつも決まり文句のように「自由自由」と言っているので、
もし「ひと様に迷惑を掛けない限り」と補足しておかないと、
では自由なら何をしてもいいのか、ひとに迷惑を掛けてもいいのか、
と言う人が必ず出てくるからです。この事例がまさにそうです。
以前、私がスピリチュアル的な《平和の一致思想》について書いたら、
ある人が、それは《思想の強制統一》だ、許せないと怒って、
自分のブログで、バーソの批判記事をシリーズで書いた人がいます。
そのように自分の色眼鏡で世界を見ているせいで、
読み違い、勘違いをする人は必ず出てくるのですね。
自爆テロを勧めたりして、ひとを実際に傷つけるものでは無いなら、
自分の考え方や生き方について心配する必要はないでしょうね。
特にブログの発言については、心配はまったくいらないと思いますよ。
「あなたの進む道は良い道です」と言われている通りです。
ブログは、自分の住まいをひと様に見せているようなものです。
自分の家ですから、法を外れてないなら何を言ってもいい場だと思います。
もしイヤな人がいれば、その人はもう来なくなればいいだけの話ですし。
バーソの関心事について、真さんが簡潔に書くのは難しいでしょうね。
大丈夫ですよ。そのうちだんだんわかってくると思っていますから。
いつもありがとうございますね。(^^♪
SECRET: 0
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いろいろと考えることはよくあります
もう一人の自分には、考えなさいと
よく言われていましたからね
今は、感覚で考えるような感じの
特殊な能力を身につけました
しかし、もう一人の自分は、今でも、わたしの支えです
ここぞというときは、もう一人の自分に聞きます
でも、わたしに憑いたのが1999年で
あれから年月が経った今
あのときよりパワーアップした状態になっています
その他の存在と常に口で話し
言葉でやりとりができるようになり
体は、もう一人の自分のコントロールのもと
その他の存在の力を借りています
わたしでない存在の力を使うことができることが
前よりパワーアップしたところだと思います
それは、ピアノの演奏などでも分かるかもしれないです
明らかに、わたしが一人では弾くことの出来ないものです
前から、もう一人の自分が描く絵を描いていたのですが
自動書記という感じでした
今は、その自動書記のような感覚を明らかに自分で自覚でき
感覚的な驚きを感じれます
わたしなら、スピーカーから流れてくる音が嫌だった場合
まず、市役所などに電話をします
ずっと流れているということは、おそらく、市役所とかでは
解決できないかもしれないですが、とりあえず、電話します
必要であれば、警察にも電話します
でも、そういうのは、長年続いているときは、
関われないのかもしれません
そういったときは、物理的に外部の音を
シャットアウトするしかないでしょうね
わたしなら、そのスピーカーのそばを通るときは、
イヤホンをして、自分の好きな音楽を
大音量で聞きながら通り過ぎます
それだったら、嫌な音を聞かなくてすみます
これは、いい加減なことをいっているのではなく
わたしが実践していることです
聞きたくない音や声はシャットアウトすることが一番です
バーソさんがよく言われる
話す以上に聞かなければならないというのは
わたしも最もだと思いますが
聞く話しにもよるかなって思います
全てを聞く必要なんてないと思います
選んで聞くことも大切かなって思います
わたしは、わたしの波長に合う人の話しを聞きます
離れすぎていると、まるで自分の感覚とは違った世界に
いるような気がするからです
それは、今、自分がどこら辺にいるかということが
関係してくるのかもしれません
わたしは自分の世界を保つには、
自分と波長の合う人と付き合うのが一番だと思っています
わたしは、自分の中での自由の定義をしたことがあります
それは、自分の中である程度のルールを持つことで
得られる自由という定義でした
なんでも好き勝手にできるのは、本当は自由ではないのです
自由になるには、それ相応のことを
しなければならないと思っています
好き勝手やっていて自由になれる人なんていないというのが
わたしの考えです
それは自由をはき違えている人たちでしょうね
思想の強制統一については、ないほうがいいと思います
バーソさんが強制統一をしているとはとても思えません
わたしは、バーソさんの言われる通り
考え方は色々あっていいと思うほうです
しかし、自分の考え方と、
あまりにもかけ離れている人たちとは
基本的に関わらないと思います
そういう人たちもいるのだなというくらいで
深くまで入っていかないです
でも、関わる必要がある人たちとは、
とことん関わるかもしれないです
それが、いまのわたしを作っています
三年前のわたしとは明らかに違うわたしを感じます
ブログの発言については、心配は
まったくいらないですと言って頂けると
とても安心しますが
自分の書いたことを後から読み返して、
それで良かったのかと思えるようなことは
最近では、あまり書かない方がいいかなって
思うようになりました
でも、自分が見ている世界で、
どうしても言っておかなければならないことは言います
何も言わないと、気づいていない事とかありますし
それを、故意にやっているのかどうかも、
良くわからない事もあります
ブログは見たい人が見に来るところですからね
わたしも見たいと思ったブログしか見ていないです
そういうところでは、情報を受け取る人は
ごく限られた人になるかもしれないです
わたしは特には、法を外れたことは
いっていないと思っているので
バーソさんのおっしゃる通り大丈夫だと思います
バーソさんの考えを聞いていると
うなずけることが良くあります
ですから、わたしはコメントを
良く読むのかもしれません
コメントって、その人のひとがらが一番に出ますからね
そのひとの生き方みたいなのが見える気がするのです
バーソさん、コメントありがとうございました
こちらこそ、いつもありがとうございます
また、バーソさんの、ここは聞いておいた方が
いいというところで
コメントを頂ければ、きちんと答えますので、
しかし、お手柔らかにお願いしますね
バーソさんの記事にもコメント入れさせて頂きます
今回の記事はわたしの心に響くものがありましたから
おじゃまさせていただきますね