八「叶えられるものと叶えられないもの」

私の考えです。
今日は、六十項目の
八「叶えられるものと叶えられないもの」です。
すぐそばにあるものを当たり前のように思い、当たり前にあることに
何か感じませんか?
すぐそばにあるもの。たとえば、時計、テレビ、携帯電話、冷蔵庫、洗濯機、
エアコン、掃除機、見渡しただけで色々なものが、すぐそばに見当たりますね。
絵を描きたければ、鉛筆、シャープペン、消しゴムなどがありますね。
漫画や小説を読もうと思えば、読む手段は見当たりますね。習い事をするので
あれば、習い事をするための道具があることが当たり前のように思えますね。
この当たり前のようにあるものは、なんなのだと思いますか?
自分が欲したからそこにあると思いますか?それとも、自分が欲する前から
あったと思いますか?
すぐそばにある当たり前のものとは、人間が数限りなく生み続けている知恵と
いう力の結晶です。
あるとき、一人の人間が、散らかった部屋を見て、片付けようとしたとします。
脱ぎっぱなしの服はどこへ片付けると思いますか?その服はだいぶん汚れて
いたとしましょう。どうしますか。捨てますか?あいにく服を何着も
買えるだけのお金を持っていなかったとします。捨てることは出来ませんね。
では、洗いましょうか。近くの川に洗いに行きますか?そのとき、自分の住む
ところに、水があれば、住んでいるところで、服を洗えますね。では、井戸を
掘ってみましょうか。掘っても掘っても水は出てきません。どうしましょう。
近くに住む人たちにそのことを話し、村全体で、水の確保の話が広がったと
しましょう。
近くの川の水を各住まいへ繋ぐ計画が話し合われるようになりました。
三年が経ち、やっと自分の住まいにも川からの水が届くようになりました。
今汚れている服を洗おうとしました。しかし、なかなか汚れが落ちません。
どうしますか?村の人たちに話をしてみました。そうすると、ある茎の成分を
つけると、汚れが落ちやすくなるという話を聞き出すことが出来ました。
そこで、ある茎をたくさんとりにいきます。
これで、服は早く綺麗に洗えるようになりました。
この繋がりは分かりますね。服を洗おうと思う。水が必要。住まいで洗いたい。
水を住まいに引く。綺麗に洗いたい。ある茎をとりにいく。この考えの結晶が
今あるものです。
洗濯機は現在ですと、どこの家庭にも当たり前のようにありますね。
汚れた服を入れ、水を入れ、洗剤を入れますね。
今のこの国にある、身の周りのものは、ある人が、あることをしようと
思ったときに、あれば便利だなという思いから生まれたものなのです。
服を洗うことを住まいで出来て早く綺麗に洗えたらいいな。家族がたくさんいる
から、多くの服を一度に洗えたらいいな。この考えが、洗濯機自体の構造を作り
上げていきます。
これが現実に則し、形を作る典型的な知恵です。この知恵を叶えられるものと
いいます。
では、現実に則さないものってなんなのでしょうか。たとえば、タイムマシーン
ですね。なんのために必要ですか?誰が使い、何をするためのものですか?
過去に戻り、この世界を変えますか?
ちょっとまってくださいね。過去に戻り、過去のものを変えることって、
もしかしたら、あなた自身が生まれてこないということになるのかもしれないの
ですよ。もしも、過去に戻ったとして過去にあるものに触れたとします。そのときに
起きる現象ってとてつもなく大きなものなのですよ。
過去にいる人にぶつかり、相手がけがをすることなど起きたら、世界の歯車が
一気に狂うことにもなりかねないということです。言葉一つかけても、その時間、
相手は立ち止まるわけですから、因果関係が大きく変わるわけです。
その人が、出会うべき事象に出会わない、その人が、起こすべき事象が起こらない、
そのようなことになればこの世界はどうなると思いますか?一人の人間の立場から
見て、それは良かったと言えることでも、人間全体から見た場合にそれは、
良いことだと言えないかもしれません。もっといえば、生きている人間が、
その瞬間に消えてしまう。存在していたものが、目の前からなくなってしまう。
そのようなことは、人間の可能性の中には、含まれていないものです。簡単に言えば、
不可能なのです。
この世界には、出来て良しとされることと、出来てはならないとされるものが
存在します。
未来を変えるとは、過去を変えることではないのです。現在生きている今を
変えるという事なのです。
時間という概念は常に前に向かって進んでいるものであり、過去に戻ることは、
その時点で自分の体の消滅を意味します。過去に戻ることは、叶えられないものと
いうことです。
人の知恵とは、今あるものの中で試されていくものなのです。
当たり前にあるものの意味を感じて見てはどうでしょうか。

七「ところ構わず吐き捨てる」

私の考えです。
今日は、六十項目の
七「ところ構わず吐き捨てる」です。
あるとき、いきなり込み上げてくる想いってありますか?このままでいいの
だろうか。何かしなければいけないのではないか。どうしたらいいのだろう。
そんなことを思う時はありませんか。
なぜそんなことを思うのだと思いますか。答えは簡単です。周りがそのような
状況を作るからです。
その作られる状況って、自然だと思いますか?不自然だと思いますか?
例を上げてみましょうか。これからは、国際社会になるから、国際的なリーダーが
使っている国の言葉、英語を覚えましょう。と周りの人々が言い始めたとします。
そこで自分はどうしますか?周りの人が英語、英語って言っている。自分は
日本語はしゃべることが出来るけど、外国人が英語で話しかけてきたら話せないと
いけないかな、どうしよう。そこで、英会話教室に通うことを決める。
三ヶ月が経ち、英語も少しは出来るかなと思い始めたとき、ある人がこう言った。
日本に外国の人が来るなら、外国人が日本語を話すべきだ。日本から外にでない
から、英語を覚える必要はない。日本語は日本の文化の象徴である。
その言葉に同調した人たちがいたとしましょう。
英会話教室からも何人かがやめていき、そのとき自分はどう思うか。周りの人が
英語を覚えましょうと言っていたから、自分は英会話教室に通い始めた。でも、
外国の人たちが日本語で話して来たら英語を使う必要ってあるのかな。英語を
話すより、日本語は日本の文化の象徴だから、もっと日本語を大切にしなければ
いけないのではないか。どうしよう。と、想いが連鎖していく。
この流れは、自然だと思いますか?不自然だと思いますか?
答えは二通り、周りに合わせることを主に置く人には自然であり、周りに合わせる
ことを主に置かない人には不自然なのです。見方の違いです。
なぜあの人は、あそこまで周りに合わせようとするのか。わからない。もう一方の
見方だと、なぜあの人は、周りに合わせようとしないのか。わからない。
この一見矛盾した人の考えは、その人の生き方の違いが生むものです。世の中に
いる人は全てが同じ考えを持ち、全てが同じように動いているわけでないです。
たとえ、同じ種類の魂を与えられても、遺伝子の違い、性格の違い、血液型の違い、
生まれてから育っていく環境、形成されていく人格の違い、様々な違いが生まれて
行くのが自然の流れです。そこから生まれる相反する想いというのも、実は自然に
作られる想いなのです。
ある人は、ああするべきだと言っているが、自分は、こうするべきだと思う。
その考えこそが、この世界に変化を与え、進化させる可能性を生む力を与えて
行くのです。それは、自分一人だけの考えで動くのではなく、周りの考えに
合わせた動きになるからです。
ある問題提起を誰かがすると、そのことに関して、人々は考え、どうしようかと思う。
問題にする必要がないと思われれば、そのことは、すぐに消えていくでしょう。
しかし、多くの人が関心を持つことであれば、もしくは、そのように、誘導して
いけば、その問題に多くの人々が関わり、何かの答えを導いていきます。それが、
今ある社会の姿であり、形なのです。新聞、雑誌、ラジオ、テレビから、パソコン、
携帯電話、インターネットと形を、より広く人の考えを聞ける形へと進化させていき、
人が考えていることを集計して、統計立てて、社会の仕組みに役立てる。
そして色々な問題提起を発信し、人々の考えを見る。
もしも、人一人で、または少数で問題を全て完全に解決できるなら、この方法を
取る必要はないです。様々な人が様々な形でこの世界には存在し、その人々の
考えを見て考えたいから、この方法を取るのです。言いかえれば、どんな考えでも
いいのです。身につけてきたあなたの考えはどうなのですか?と聞いているのです。
ところ構わず吐き捨てるように見えるものも、もしかしたら、誰かの考えのヒントに
なっているのかもしれませんね。

六「数ある中の一つ」

私の考えです。
今日は、六十項目の
六「数ある中の一つ」です。
夜空に輝く星ってたくさんありますね。なぜあんなにたくさんあると
思いますか?
その星の一つ一つに存在する意味ってあると思いますか?
もちろんあります。
あの星たちって、実は人間の光なのです。人間の光って何かと言えば、
人間の命の光と同じ物です。人が一人世界に生まれれば、星が一つ誕生し、
人が一人亡くなれば星が一つ消えます。
星の光り方って、まちまちなのですよね。自らが光ることのできない星、
光を放つ星から照らされて光を放つ星。光を自ら放つ星、強く放つ星、
弱く放つ星。
星って人の命の光と同じようなものなのです。
命の光とはなんでしょうか。
自分自身が光を放てなくて、他者の光に照らされて光るってどういうこと
でしょうか。
これは、とても意味があり、人間の社会の原理でもあるのです。
自分自身が光を放てないとは、自ら光る力を与えられずに生まれてくる命の
ことです。
どういう命かといいますと、そのときの社会の波に流されて、生きていく
生き方しかすることのできない命です。そのときの社会で光を放っている命に
照らされて、光を放つ命のことです。
たとえば、今の社会という枠組みを作るのが、光を自ら放てる命、その社会の
枠組みの中で生きていくのが、照らされて光を放つ命。
この命の光の違いは、そのときの自分の位置というのが大きく影響してきます。
自分が何をするために生まれ、今何をしているかということに大きく影響して
きます。
日々生きるために、労働し、子を育て、家族を想い養い、色々なものと出会い、
感じて、考えて、経験して、過ごす。そこには、色々な感情の目覚めもあるで
しょう。
その生き方が普通の人の生き方でしょうか?何か感じませんか?
なぜ、労働し、子を育て、家族を想い養い、何かを得ていくことが普通の
生き方だとです。
実は、人間の本能、つまり遺伝子に組み込まれているのです。その生き方が普通の
生き方だということをです。大人になれば、ほとんどの人々がそのように生きて
いくようになるという定義が遺伝子の中に組み込まれているのです。
自分は、子供は授からない。自分は、結婚をしないという人もいるかと思います。
しかし、遺伝子に組み込まれているということは、社会がそのような仕組みで
動いているということなのです。多くの人は、子を残そうとし、多くの人は結婚と
いう形を選ぼうとします。
結婚の形もそのときの社会の仕組みなどによって変わってきます。
そして健全な人には、労働という役割が必ずといっていいほど与えられます。
人の遺伝子に組み込まれたもっとも強いものが今上げた三つなのです。
労働、家族を持つ、子孫を残すです。
この作用が産み出すのが、社会の活力であり、なければ、社会は成り立たずに
文明は滅ぶでしょう。文明が滅ぶ時の大きな要因が、この三つのことが回らなく
なったときなのです。
その文明の根幹にいるのが、この社会の仕組みを作っている人間、自らが光を
放つ存在なのです。その人間がいなければ、周りの人間は、照らされて光ることが
出来ないようになっています。しかし、空に輝く星が数えきれないほどあるように、
自ら光を放つ人間も数えきれないほどいるのです。数ある中の一つなのです。
夜空に輝く星を見るとき、その数の多さが命だと、考えることが出来れば、
自分の今いる位置の意味も何かを示しているのだと思えてくるかもしれないですね。

五「もたれる生き方を止めるとき」

私の考えです。
今日は、六十項目の
五「もたれる生き方を止めるとき」です。
人は一人では生きていけない。なぜだと思いますか?
自分だけで自給自足すれば生きていけるのではないですか?と思う人もいるかと
思います。
自給自足って、どうやってすると思いますか?その知識、知恵はどこから得ると
思いますか?全部自分一人で出来ると思いますか?ここまで言えば分かりますね。
自給自足をする知恵は、誰かが教えてくれた、または、誰かが記したものを見て
得たものなのです。
全てを一から自分の知恵だけでやろうとすると、とても困難であり、
生きることは難しいでしょう。そこには、人が生きてきて得た知恵というのが
必ずあります。
人が寄り添い生きていくのは、人一人がとても弱い存在だからではないのです。
人とは、多くの知恵を共有することができ、活かすことが出来るからなのです。
幼いころに外で遊んだ記憶がある人は、その外という空間で見たもの、聞いたもの、
感じたもの、考えたものを自分の経験として蓄積します。外で遊ぶとき、
一人でしたか?もし一人で遊んでいたのなら、それは、そのときの自分が興味を
持つもの、何かから得た知識、知恵があったからではないでしょうか。
何もない中で何も考えずに一人で遊ぶことって、とても難しいことなのです。
たとえば、おもちゃがあり、それを使って一人で遊ぶ、それって一人で遊んで
いるのではないのですよね。おもちゃという相手がいるわけなのです。
言いかえれば、誰かの知恵の中で遊んでいるのです。一人で公園のブランコに
乗り、1時間何も考えずに過ごしていても、それは、ブランコを考えた人と共に、
過ごしていることなのです。もっといえば、砂場で山の形を作って一人で
遊んでいるのは、砂場を作った人と共に遊んでいるのと同じことなのです。
何もない中で何も考えずに遊ぶって、真っ白な世界でわけも分からず、
体を動かしているのと同じことなのです。文字道理、生きているとはいえないです。
それを生きていると言えるのであれば、頭の中に何かの知恵があり、
思いふけることができる。または、考えることを全くしない。もしくは、
その生き方しか許されない場合でしょう。
この世界で一人で生きていくってことは、まずないことなのです。
幼いころから孤独で、一人で生きてきた。という人もいるかと思います。でも、
それって、本当に一人だと思いますか?一人だけで本当に生きていくことって
可能だと思いますか?
孤独感というものは、人それぞれに違うことはあります。しかし、生きるという
ことは、決して一人でいきていくことではないのです。そこには、誰かの知識と
知恵が存在します。全てを自分一人だけで考え、生きていくことができるのは、
人間ではないです。もちろん神でもないです。そのような存在は、この世界には
存在できないものです。
では、自分の人生を自分の力で切り開こうとする人はどうだと思いますか?
自分の力とは、誰かの知識、知恵を活かした力のことです。自分の力で人生を
切り開くとは、他者の力を元に、生きていくすべを見つけるということなのです。
本題の、もたれる生き方を止めるときとは、なんだと思いますか?
それは、生き方の根源、つまり生き方の大本の知恵は他者のものであっても、
歩んでいく、進んでいく、切り開いていく、その力を他者に依存してはならない
のではということです。
他者に依存するとは、他者の考えを自分のそのままの考えにし、他者の作りだした
ものを自分のものと思い、他者が与えてくれるものをそのまま受け入れることです。
人は考えることで多くのことを学べる生き物です。
自分なりの生き方を見つけるときなのかもしれないですね。

四「止めどなく流れる涙」

私の考えです。
今日は、六十項目の
四「止めどなく流れる涙」です。
ある日、何かを想い突然涙が出てくるということがありますか?
それは、感情がその想いに影響されて流れてくる涙なのです。その想いって
なんだと思いますか?
悲しみ、憎しみ、怒り、嬉しさ、楽しさ、喜び、どんな感情という想いだと
思いますか?
実は、共鳴っていう心の繋がりが生むものなのですよね。
共鳴って何なのですか?というと、他者の想いに自分の想いが同調すること、
その想いに自分の想いが重なり同じような感覚を持つことなのです。
そこで、人は涙というものを流します。
映画やドラマ、小説、アニメなどで、同じ場面で人が涙を流すのは、作り手が、
意図的に自分の想いと同調させることをしようとしているからなのです。
その涙って偽りの涙だと思いますか?
実は、自分が本当に泣いているのではないのです。共鳴し合った心が泣いて
いるのです。それは本当に自分の涙なのでしょうか。
答えは、とても簡単です。自分の目覚めた心が流してる涙、言いかえれば、
自分が気付いていない自分が流している涙なのです。
自分が気付いていない自分とは何なのでしょう。それは、眠っている自分の
感情のことです。
人は、生まれてくるその時点で、完全な魂を持って生まれてきます。生まれて
くるときに割り当てられる魂も違った要素をそれぞれに持たされて生まれて
くることになります。それは、遺伝子の兼ね合いであったり、魂に込められて
いる感情であったりします。
人はなぜ笑うと思いますか?楽しいから、嬉しいから笑うと思いますか?
笑いというものも、気付きから生まれるものなのです。そのとき笑っている
自分というのは、笑えてくるから笑っているのと、笑わなければいけないから
笑っているのと、笑おうとして笑っているのと違うものです。そこには、
人それぞれの気付きが存在します。今、笑っている自分は、本当の自分なのか
どうかということです。
笑いには、共鳴という言葉は当てはまらないのです。単なる同調という言葉の
方があてはまると思います。そこには他者は関係なく、自分がどう想うかという
ことが一番大きく関わってきます。
私の考えも一つの考えです。この考えに全ての人が同調するのであれば、
それは、共鳴ではないです。単なる笑いと同じことです。
世の中の出来ごとに対する想いも同じことです。自分がどのように同調するかで、
今のこの国の形が変わり、みんなの想いとなるように感じます。
言いかえれば、ある人が言ったことが、全ての考えのようになってしまうという
ことです。
その同調するものは、ほんとうに自分の想いなのでしょうか?
それが本当の意味での個々に与えられた想いなのでしょうか?
テレビで言っていたから、映画でやっていたから、小説、アニメで見たから、
みんながそういっていたから、それが本当に自分の想いなのでしょうか?
止めどなく流れる涙とは、自分自身を知らずに流している涙のことです。
涙を流している根源が何か、想いとは何か、感情とは何か、その共鳴とは
一体何なのか。
今一度、自分が涙を流した時に、なぜ流れているのか考えて見るときなの
かもしれないですね。

三「夢を忘れた大人たちへ」

私の考えです。
今日は、六十項目の
三「夢を忘れた大人たちへ」です。
夢、とは何なのでしょうね。寝ているときに見るのも夢です。
なりたいものを思い描くのも夢です。
今、社会はどのような形をしていると思いますか。
とても自由で、伸び伸びとしていて、自分の発想を限りなく受け入れてくれる
社会だと思いますか。
答えは、自由なように見えて自由ではなく、独自の発想を受け入れてくれるようで
そうではないです。
例を上げれば、自由と言う言葉は存在しますが、自由に動けば、周りが戸惑い
困惑し、何を確かなものと思い、動けばいいのか分からなくなるのが現状です。
個々の意識に左右されるのには、ルールを設けなければ動きづらいということです。
そして、そのルールを作っているのが、マスコミです。
もっといえば、マスコミを動かしているものとでもいいましょうか。
この国の形を今の形にし、教育、制度、秩序などを作り上げたものたちです。
そのものたちのルールに乗っ取り、この国は動き、変化してきました。
インターネットで自由に発言をしている人たちもいるように見えますが、
実はそのものたちも、ある程度のルールをもっています。
自由とはいったいなんだと思いますか。
何者にも束縛されず、勝手気ままに自分の主張をし続けることだと思いますか。
それとも、ある程度のルールに乗っ取り、自分の考えを述べることだと思いますか。
答えは、どちらでもないのです。自由とは、生きることを放棄することなのです。
自分の考えを述べるのをやめ、ルールも気にせず、何事からも束縛されず、
何も考えずに、ただ食べて寝て起きる。この繰返しを自由といいます。
そういう生きることを放棄した生き方もあります。
生きることとは、一人で生きていくものではないです。そこには、自分の考えがあり、
人の考えがあり、ある程度のルールがあり、束縛もされます。
では、ここで、私の自由の定義をしてみたいと思います。これが私の自由です。
生きることの意味を見つけるため、自分の考えを述べ、人の考えを見て、自分を
見つめる。そこから、生まれる自分を自由とするのです。
この繰り返しが、秩序になり、自分の経験になり、自分の想いになると思います。
そして、社会全体を形作っていくと思います。
抽象的なものを具体的にするのは、個々の考えの重なり合いが産み出していくもの
だと思います。はじめから具体的なものが生まれるのであれば、誰も考えなくても
いいし、誰の考えも聞かなくてもいい。
抽象的なものを形ある具体的なものにするのが、個々の考えであること。
それこそが人間の知恵なのだと思います。世の中には色々な経験をし、色々な
考えを持った人間が存在し、まだまだ可能性は限りなく広がっていると思います。
その道しるべを作るのが、現在の大人たちです。
夢を忘れた大人たちとは、今の社会を、そのままで良しとし、そのまま受け入れて
しまう大人たちのことです。
子供は、大人たちが作った社会の中で生きていきます。そして、成長し、大人に
なります。成長過程で影響されるのは、そのときの社会なのです。
なぜ、マスコミがあるのかは分かりますね。そのままで良しとしないために
あるのです。可能性を見るためにあるのです。
そのことを頭のすみにおき、自分なりの可能性を見つけていく努力をしてみては
どうでしょうか。

二「明日への希望を持つ」

私の考えです。
今日は、六十項目の
二「明日への希望を持つ」です。
今日があり、今と言う時間が存在していることになんの疑問も感じずに
生きている人が多いのではないでしょうか。
今が当たり前にあり、この社会が当たり前のように存在していると
思っている人が多いのではないでしょうか。
確かに、当たり前に存在しているといえばそうです。
しかし、良く周りを見てください。周りの景色、周りの人間、周りの様々なものは、
そこにあるのが本当に当たり前なのでしょうか。
気付いている人もいるかもしれませんが、この世界は、全てが嘘で出来ています。
絶対な完全無比の真実とは実はないのです。
人は生きていく上で、何かを見て、聞いて、考えて、感じて生きていくことを
当たり前のように思っている健常者の方たちは多いかと思います。
確かに体に何も異常がない人は、当たり前に出来ることです。
しかし、人一人に与えられている時間とは、限りなく少ないです。
病気をきっかけにその時間の尊さを身にしみる人間もいるでしょう。
体に異常をきたし、今まで出来ていたことが当たり前に出来なくなり、
気付く人間もいるでしょう。
では、当たり前に出来ている今という時間を有効に使わないでいることで起こる
時間の空白はどこで取り戻せると思いますか。
答えは、とても簡単です。気付いた時から取り戻せるのです。
気付いたときが早ければ早いほど、多くの時間を有効に使うことができるでしょう。
気付くとは、自分の存在にです。自分はなぜこの世に生まれ、なぜここにいて、
なぜこうしているのかということです。
自分の存在の意味を考えずに、月日だけが過ぎていくということも多々あることです。
周りの世界にあわせて、何を急ぎ、何に焦り、何に動かされているか、分からずに、
ただ時間だけが過ぎていく。そうした生き方をしいられるのは、この世界にいる
大半の人間なのです。
ごく一部の人間が、この世界を動かしている感覚に陥っていますが、その人間も、
全てを知っていてそうしているわけではなく、その位置に自分がいるから
そうしているのです
実際は、本当のことなど誰も分かっていないのです。
この世に絶対無比の真実があるとするなら、明日という日は何が起ころうと
来るということです。
仮に太陽が消滅して、地球が消えて無くなっても、この世界に時間と言う概念が
ある以上明日は必ずやってきます。
地球が消滅したら、何もすることがないのでは。と思う方がいるかもしれませんが、
することは、山のようにあります。地球が消滅したら、魂の受け皿がなくなるわけ
ですから、新たな地球を目指して、長い旅をしなければいけないですね。
ふざけていっているわけではなく創造主がこの地球に人間を誕生させました。
この宇宙に存在する生命体はこの地球だけです。
ですから、実は太陽が消滅することも、地球が消滅することもないのです。
創造主が、この世界の全てに失望し、全てに絶望しなければです。
その可能性は限りなく零に近いです。ですから、明日は必ず来ます。
それは自分の存在、今まとっている肉体が滅びても、必ず来ます。
たとえ、自分の意識が消えてしまっても、必ず来ます。
人は一人で生きていくものではないです。自分の想い、自分の生きた足跡は、
どこかに何かを残しているのです。
生きるということを考えるとき、人はどこかで繋がっているということを
感じることが、とても大切なことです。その気付きがいつなのかは、
人によって様々です。
明日への希望を持つとは、自分一人だけのことではなく、人間全体、そして、
この世界の未来のことをいっているのです。
時間の持つ意味、自分の存在を考えるときなのかもしれないですね。

一「日没とともに生きる」

私の考えです。
今日は、六十項目の
一「日没とともに生きる」です。
昔、この国では、日が昇るときに起き、日が沈む時に眠りに就く習慣がありました。
それは、光と言うエネルギーが大きく影響していたからです。
時が経ち、現代では、光というエネルギーは、日が沈んでもこの国を照らし、
夜でも明るい状態を保つことが出来ます。
それは、人々が光というエネルギーを欲し、有効に活用したいという願いが成した
技だともいえます。
夜という時間に活動してより多くのものを得、より多くのものを作りだそうとした
現れなのかもしれないです。
それが、間違っているとは決して思いません。しかし、人は、日の光に力を得、
日の光によって変化して行く生き物なのだということを、改めて認識しなければ
ならないときだと思います。
それは、どういうことかといいますと、人工的に作った光から受ける影響と、
自然の光から受ける影響は、違うものなのです。
この世界が創られた時、太陽と共に地球の原型が誕生しました。地球は太陽がないと、
活動できないように創られているのです。言いかえれば、人は太陽がないと生きて
いけないということなのです。
私は、今の科学技術で証明されている細かなことをここで述べることはしません。
それは、あらゆる分野の専門家の方々が説明できるでしょう。しかし、基本的な
仕組みだけは述べておこうと思います。
地球は自己修復能力というものを備えています。その力の根源が太陽なのです。
太陽がなければ、地球は自分の体を修復することが出来ません。
それと同様に、人も太陽がなければ、自分の体を癒し、修復する能力を得ることは
出来ないように出来ています。
人が生きていく上で、人工的に作られた光の中で生きる生き方を選んだ今の社会と、
自然の光の中で生きる生き方を選んだ昔とでは、大きく違いが出てきています。
光のエネルギーが与える力というものを、今一度考えるときが来ているのでないかと
思います。
火は自然の力で起こせる光、油で起こす光も自然の光、風で起こす光も自然の光、
水で起こす光も自然の光。しかし、人力で起こす光は自然の光ではないのです。
今、人間が作り上げた、太陽光発電、原子力発電、火力発電、風力発電、水力発電、
この人工的な光のエネルギーをどのように自然の力で起こすエネルギーにかえるの
かは、エネルギー自体の本来の姿を見直すことだと思います。どのようにすれば、
自然が起こす光だけで、生きていくことが出来るのか。
それは、多くの物を産み出す社会を見直し、必要最低限の物を産み出す社会にする。
それでは、人間の進化はどうなるのか。という疑問が出てくるかもしれませんが、
今の社会、つちかってきた人間の知恵が、必要最低限の物を産み出す社会に切り替える
試みをすれば、人間は更なる進化を遂げます。
これは、人間の新たなる知恵が試されるときが来ているのだと思って頂ければと思います。
日没とともに生きるとは、日が昇っている限られた範囲の中で活動をして、日が沈めば
家族の元に戻り、共に過ごし、眠りに就く。
この簡単なサイクルを今の社会がもし実行することが出来るのであれば、人間は、
更なる高みへ登ることが出来るのではないかと思います。

私の考えです

私の考えです。
これから二ヶ月間に渡り、日本をどうしていくのか、
世界がどうあるべきかを綴っていこうと思います。
これは、私の考えであり、強制するものではなく、
考えの一つとして見て頂ければと思います。
私は百ほどの魂の一つであり、固定観念を持った魂の一つである事を
まず初めにお伝えします。
そのうえで、これから二ヶ月の間述べていくことを見て頂けたらと思います。
六十項目に分けて考えを述べて行こうと思います。
まずは、一から十までです。
一「日没とともに生きる」
二「明日への希望を持つ」
三「夢を忘れた大人たちへ」
四「止めどなく流れる涙」
五「もたれる生き方を止めるとき」
六「数ある中の一つ」
七「ところ構わず吐き捨てる」
八「叶えられるものと叶えられないもの」
九「夢から覚めたあと」
十「誰かが言ったことの影響」
では、明日から、一から十までの、私の考えを述べていこうと思います。